主観と客観

書いている人:ぼん(92年生まれ) 主に発達障害(ADHD、AS)について自分の見解を書いていきます。

自己完結ーのび太型ADHDと積極奇異型AS

一方、のび太ADHDと積極奇異ASは馬鹿正直な点が不思議によく似ている(「のだめカンタービレ」の千秋とのだめが分かりやすい?)。

 

 

私にもそういう傾向はあるが、のび太ADHDは発言が支離滅裂で、軽く「電波」入っていることが多い。意図に対しては完全に合わせるが、行動としての他者は感じることができない。能動型ADHDは認識するもの全てが自分を脅かす近さで感じるが、受動型ADHDにとっては認識する意味の全てが味方である分、個々の違いが感じられない。ある意味ジャイアンよりも何も感じない孤独の中にあるのだ。単に間抜けであるということがのび太の罪でもある。

 


意図を認識せず行動を仕切りに行く積極奇異型ASは脳からしモラハラにできている。合わせようと思っても、積極奇異型ASはこちらの意図を汲まないので合わせきれずに潰されてしまうので、私は積極奇異型ASといると蛇に睨まれた蛙のようになってしまう。ジャイアンの上に立とうとする意図は理解できるため恐怖の対象にはならないが、積極奇異ASには悪意がないのでかえって脳が混乱してしまうのだ。


のび太型とジャイアンADHDは客観性を認識できない根源的な不安が共通しており、受動型ASとは相手に合わせているのに誤解されやすい(相手は自分の望むようには仕切ってくれない)という部分が共通している。

私はこの両者には割と好意的なのだが、積極奇異型ASには同族嫌悪に似たものを感じていた(どういう同族かというと、他者の影響を受けない「自己完結している族」だ)。が、最近になって、積極奇異型ASは最も献身的な人たちなのかもしれないと認識を改めている。ASの人は行動としては頼りになる。一方、ADHDは意図を尊重する分、他人と関わらず無責任に見えることもある。

 

型に関わらず人格は一人一人違うので、いつか人間的相性のいい積極奇異型ASに会えるといい。

 

ねじれ、あるいは器用さージャイアン型ADHDと受動型AS

ジャイアンADHDと受動型ASは他者を気にしてなさそうに見えて非常に気にしている、「素直じゃない」行動がよく似ている。

これは、「認識の仕方」と「行動スタイル」が噛み合ってない事に由来するようだ。

 

 

ジャイアンADHDは仕切りたいのだが、行動自体を認識できないので、どの範囲まで仕切ればいいのか実感として分からず「自分は世界でもっとも偉大だが、その地位は常に脅かされている」という認識の中、常に不安に苛まれている。他人の失敗で自分が不利益を被ることに対する異常な怒り方と責任追及が、のび太ADHDとの違いだ。あらゆることに文句をつけており、わざわざ欠点を粗探ししているように見えるのは、ADHDとして客観的なことが分からない不安の理由を探そうとしているからだろう。

しかし、その分ジャイアンは超人的な努力と問題解決力を持っており、のび太としては感動もする。理屈で相手を言い負かす能力は、政治家や法曹など論理を戦わせる仕事に向いている。

家具の位置が少し違っているだけで許せないなどの仕切りたい感覚は、AS的認識と実際の行動が似ていて判別が難しいかもしれない。

 


血液型占いでAB型の性格とされているものは受動型ASのことだと見て間違いないだろう(だとすればA型が多数派の受動型、B型が積極奇異ASと一部のジャイアンとそれに近い多数派、O型がADHDと主観的な多数派といえるかもしれない)。

受動型ASはクールにはほど遠い性格だが、主観に反応せず、行動を完全に合わせているので他人からはそう見える。友人を非常に大切にし、遊びやイベントなど具体的な話に勢いよく飛びつく。相手や周囲に合わせてどういう行動をとればいいかよく分かっている(会話の意味が分からなくても黙って行動を合わせる)ので、通常トラブルになることは少ないが、主観的に問題を処理することができないので、一度ケチがついた人間関係を修復するのが難しいかもしれない。

 

結果としてジャイアンADHDと受動型ASは多数派と似た認識を持つが、多数派側から見た理解は直感的に難しくなる。「エヴァンゲリオン」のアスカとレイはジャイアンADHDと受動型ASの女性として分かりやすいモデルとなるので参考に。

 

発達障害の「型」―能動と受動

身近なADHDやASについて考える上では、「型」の違いについて考える必要がある。

 

私と母はいわゆる「のび太ADHD」で、「ジャイアンADHD」である父とはまた違った認識を持っている。友人にも積極奇異型ASと受動型ASが両方いるが、両者の雰囲気は全く異なる。受動型ASの友人は男女両方いるが、人格はともかくキャラクターがよく似ているので、「能動型か受動型か」という行動スタイルの違いは、「ASかADHDか」という違いと同じくらい本質的なものに思われる(この辺の具体例はやんばる先生の「意味不明な人々」http://dryanbaru.xyz が詳しい)。積極奇異という言い方は失礼に感じるし、発達障害はみな多数派から見れば奇異な存在だから能動型としたいが、言葉の認知度を優先して、積極奇異ASと書かせていただく。

 

行動スタイルの違いについては参考にしたものが「意味不明な人々」の諸々の記述と実体験しかないので根拠を示すのが難しいが、どうやら能動型は「自分が上であるのは当然なので周囲や相手を仕切りたい」、受動型は「自分は合わせるので相手にうまく仕切ってほしい」と考えているようだ。この性格の違いは多数派や動物にもあるが、発達障害の場合は主観と客観に偏りがあり、周りから浮いてしまうのだろう。発達障害は子供の頃は奇妙に大人びていて、大人になると子供っぽく見えると言われる(実はできない部分は幼児と同じレベルなのだが、他方の能力が優れているギャップでそうは見えない)。


これらをまとめると、たとえばジャイアンADHDなら「意味についていつも考えている+事実については認識できない+自分が上であるのは当然なので周囲や相手を仕切りたい」、受動型ASなら「意味について認識できない+行動についていつも考えている+自分は合わせるので相手にうまく仕切って欲しい」といった具合の簡単な式で示せる。身近な発達障害について一つ一つのトラブルに意識を向けると本質が見えずかえって混乱するので、シンプルに考えるのがいいだろう。

 

男性脳・女性脳?

ASを男性脳の極端な表れ方だとする見方もあるが、私は「男性脳・女性脳」という分け方が科学的にできるとは考えていない。

 

女性脳は家事などのマルチタスクに優れるというが、ASでもADHDでもマルチタスクは不得手だろう。ただ「客観脳・主観脳」があり、多数派の中でも成果をあげる能力に優れた能動型かつ客観脳の男性が、受動型かつ主観脳の女性を好むということはあるかもしれない。序列付けを避けて感情面の問題を処理する主観脳に特化することが、以前の女性には必要だったのなら、(あるいは男性にその逆が)その能力を後天的に伸ばそうとし、社会的価値観でも奨励してきたということはあるだろう。

過去にはそういった違いがあったにせよ、人類全体として意識が細かくなっているように思われる(人類のIQが上がり続けているというフリン効果もある)。

 

これからは客観脳の女性、主観脳の男性が以前よりも評価されていくだろう。主観的であることは単に意図読みに優れているとか愛想がいいというだけではなく、抽象化能力が高いことと関連付けられる。

 


テンプル・グランディンの言うように世界はあらゆる種類の脳を必要としているのだ。

共通点は「細かい意識」

ADHDとASは互いに認識を共有することはできない。このことは肝に命じて置く必要がある。

 

私の文章もAS系の人から見れば、何が言いたいのかさっぱり分からないかもしれない(連想だけで書いているので、読みにくい文章で申し訳ない)。両者は強烈に惹かれるが、不倶戴天の仇敵ともなりうる。ADHDはASの行動が客観的に正しいだけでは、ASはADHDの主観的な意図に対する配慮だけでは物足りない。自分にとっての当たり前を押し付けると多大なストレスを与えてしまう。

 

やんばる先生は、ASは「こだわり」が特徴で、積極奇異ASにとってプロセスは絶対だと書いていたが、これは頭の中に細かく行動と結果からなる事実が積み重なっているために、本人以外から見るとそう見えるようだ。

ASのこだわりとADHDの偏屈さとは、それぞれ完全に客観的か、完全に主観的かの違いでしかなく、結果的に見えている世界自体は非常に近いものになるように思われる。この点、お互いに認識の「仕方」を共有することができない分意外な感じもする。だが、発達障害の本質は「細かい意識」にあって、ADHDである私も主観的な多数派よりもASの人に強く惹かれる部分がある。

 

互いに足りない部分を補い合うことができれば、根源的な不安から一時的に解放される(これが依存を招く「マタタビ」なのかもしれないが)。ASは私のシミュレーションの外にある。私にとっては「意図読み」が世界の全てだが、自分のシミュレーションが通じないことは、救いにもなりうる。

 

ADHDとASの才能 

ADHDのプラスの特性として挙げられる独創性は、抽象化能力の高さに関係しているように思われる。

頭の中にはバラバラの情報の断片が存在していて、無意識のうちにそれらを常に組み合わせようとしている。やんばる先生がADHDの発言は要約が可能だという話には納得できる。抽象度を上げていけば、意味は集約されていく。細部の事実のシミュレートに長けたASとは真逆だ。

ASの人の発言、特に積極奇異型ASの話を全体的な意図として考えると、とんでもない悪意だと大きな誤解をしてしまう。ASの人と話すときは、その状況で(積極奇異なら仕切る、受動型なら合わせる方向で)客観的に正しいと思う行動をとっているのだと、ADHDは意識する必要があるだろう。

 


私もはじめはASの人は想像力に乏しいように感じたが、考えをあらためている。ADHDとは方向性が異なる芸術的才能があるようだ。サヴァン的な写実的描写力がなくとも、客観的思考はASの人を天性の詩人にする。


AS的能力の歴史上の人物として、パッと思いつくのは、シモーヌ・ヴェイユ(彼女は私の大学時代からの関心事だった異端カタリ派に共鳴していた)、共感覚を両親共に持っていたというウラジミール・ナボコフ(彼は行動のシミュレーションを楽しむ遊戯、チェスにも魅入られていた。代表作「ロリータ」の少女は蠱惑的なジャイアン女子的キャラクターで、ASの人の好きそうなキャラクターでもある)。

 


側頭葉癲癇のもたらす天才症候群、「ゲシュヴィント症候群」だったと言われる人の中には、ドストエフスキー南方熊楠がいる。彼らとジャイアンADHDの特性はよく似ている。他にも「トゥレット症候群」のプラスとマイナスの特性がジャイアンADHDに似ている。こちらの方向からADHDについて探っていくのも面白いかもしれない。
ADHD的能力で思いつくのはフランス文学のフロベールだろうか。彼にも癲癇発作があり、どちらかというと「ゲシュヴィント症候群」かもしれない(ジャイアン的な女性像「エンマ」を自分の分身のように評している)。私の知力の向上に大いに助けになった哲学者ドゥルーズの抽象的思考能力の高さはのび太ADHDに近い。観念だけを掘り下げ続けられる思考は、のび太ADHDの電波的支離滅裂発言に近いものを感じる。オリバー・サックスは、私や、私が影響を受けたやんばる先生の基準で照らせば「のび太ADHD」で間違いないだろう。サックスの著作をバイブルにしているお仲間も多そうだ。

 


「視力が急激に落ちること」など低次の認識の低下は、できていたことができなくなるので障害としては分かりやすい(コンタクトをつけて何とかなるなら、面倒だが大事ではない)。だが「見えていないことすら分からない」病態失認など、高次の意識の変容には、既存の「障害」観念を適用できないかもしれない。『火星の人類学者』にはトゥレット、ゲシュヴィント、アスペルガー症候群を持つ人たちがそうした脳の器質学的違いゆえの個性をプラスに変えて生きている様が描かれている(色覚を失った画家も高次の意識の変化に近いのかもしれない)。

私はコンサータストラテラなどの薬に頼ることはしたくない。高次の認知の変容は人格にまで影響を与えてしまうからだ。プラスの特性を失ってまで、ADHDのマイナスを消したくはないし、消せるとも思えない。しかし、あくまで私には今のところ必要ないというだけだから、この先考えが変わるかもしれない。

 


他人を発達障害として疑うことの是非はともかく、人間の才能や性格について考える上でADHD系かAS系か考えてみると理解が深まる。

「先延ばし」「自己突っ込み」「過集中」

 「意味不明な人々」http://dryanbaru.xyzではADHDの特性として、「先延ばし」と「自己突っ込み」、「過集中」を説明している。

 


「先延ばし」は課題があるのは知っているが、行動のシミュレーションができないゆえにやり方が分からない、しかし意味としてはやらなければならないことは強烈に意識している状態だ。「先延ばし」のときは、恐怖と憂鬱で時として希死念慮も出てくる。済んでしまえばこの程度のことか思うものなのだが……。

むしろADHDは行動のシミュレーションの代替措置として、「先延ばし」にしていることに対する憂鬱感を利用するといいのかもしれない。この感覚が来たときは、逃げるのを諦めてその出来事に集中すればいいのだ。そうした経験が積み重なっていけば自信もついてくる。新型うつ病と呼ばれるものの中に、ADHDの「先延ばし」による憂鬱感は多いように思われる。

 


多数派にも自己突っ込みはあるが、ASには(ADHDのような)自己突っ込みはないようだ。「自己突っ込み」は「他の人には何でもないこと(手続きとか)がどうしてこんなに面倒なんだろう。こんなこともできないなんて自分はダメな人間だ」と具体的なことが分からず己を責めることしかできない状態である。おそらく多数派でも主観的であるほどこうした自己突っ込みが見られるはずだが、ADHDの場合は程度が著しい。ADHD系のこれが、意味に対する内省だとすると、AS系の場合は「あの行動は間違っていたのではないか」という行動に対する内省だといえるかもしれない。

この辺りが複雑なのだが、ADHDの自覚があるなら、「あの行動は間違っていたのではないか」と考えるのはやめよう。それが分からないからADHDなのだから、ノイローゼになるだけだ。

 


ADHDの「過集中」は自分や他人の行動を認識せずに、意識が興味の対象に没入することで起こる。私が考える限り、ADHDには通常の集中というものはなく、集中力を切らした状態か、過集中かの二択しかない。あえて区別するなら追い詰められた心理状態の過集中か、自分の好奇心で動いている過集中かの違いがあり、後者の方がパフォーマンスが高いのは明らかだ。

「〜しなければいけない」「周りに迷惑をかけてはいけない」という観念で追い詰められると、ADHDは精神的に持たず、衝動的な行動でその仕事をやめてしまう。しかし、自分がやりたいからやっている、どうしてもやりたくなければ他にできることを探すという心の余裕があれば、過集中状態での疲労も後に響かなくなるだろう。

ADHDが朝起きられないのも、脳が自分の行動をシミュレートしてくれないことに起因するようだ。客観性を認識できないADHDは、多数派やASとは全く違うのだ。

 


私は自分自身の「意味は分かっているはずなのに、正しい行動をとることができない」特性に振り回されて生きてきた。ADHDについて自分なりの理解が深まった今、小学生のときにはすでにあった二次障害から、ようやく回復しつつある。


私は「行動のシミュレーション」ができない。だから、「行動のシミュレーション」は放棄する。それができないことから起きるあらゆる自分の失敗を許す。私の成長は「意味のシミュレーション」能力を伸ばしていくことにしかない。それで十分だということを確認していきたい。