主観と客観

書いている人:ぼん(92年生まれ) 主に発達障害(ADHD、AS)について自分の見解を書いていきます。

ADHDとASの才能 

ADHDのプラスの特性として挙げられる独創性は、抽象化能力の高さに関係しているように思われる。

頭の中にはバラバラの情報の断片が存在していて、無意識のうちにそれらを常に組み合わせようとしている。やんばる先生がADHDの発言は要約が可能だという話には納得できる。抽象度を上げていけば、意味は集約されていく。細部の事実のシミュレートに長けたASとは真逆だ。

ASの人の発言、特に積極奇異型ASの話を全体的な意図として考えると、とんでもない悪意だと大きな誤解をしてしまう。ASの人と話すときは、その状況で(積極奇異なら仕切る、受動型なら合わせる方向で)客観的に正しいと思う行動をとっているのだと、ADHDは意識する必要があるだろう。

 


私もはじめはASの人は想像力に乏しいように感じたが、考えをあらためている。ADHDとは方向性が異なる芸術的才能があるようだ。サヴァン的な写実的描写力がなくとも、客観的思考はASの人を天性の詩人にする。


AS的能力の歴史上の人物として、パッと思いつくのは、シモーヌ・ヴェイユ(彼女は私の大学時代からの関心事だった異端カタリ派に共鳴していた)、共感覚を両親共に持っていたというウラジミール・ナボコフ(彼は行動のシミュレーションを楽しむ遊戯、チェスにも魅入られていた。代表作「ロリータ」の少女は蠱惑的なジャイアン女子的キャラクターで、ASの人の好きそうなキャラクターでもある)。

 


側頭葉癲癇のもたらす天才症候群、「ゲシュヴィント症候群」だったと言われる人の中には、ドストエフスキー南方熊楠がいる。彼らとジャイアンADHDの特性はよく似ている。他にも「トゥレット症候群」のプラスとマイナスの特性がジャイアンADHDに似ている。こちらの方向からADHDについて探っていくのも面白いかもしれない。
ADHD的能力で思いつくのはフランス文学のフロベールだろうか。彼にも癲癇発作があり、どちらかというと「ゲシュヴィント症候群」かもしれない(ジャイアン的な女性像「エンマ」を自分の分身のように評している)。私の知力の向上に大いに助けになった哲学者ドゥルーズの抽象的思考能力の高さはのび太ADHDに近い。観念だけを掘り下げ続けられる思考は、のび太ADHDの電波的支離滅裂発言に近いものを感じる。オリバー・サックスは、私や、私が影響を受けたやんばる先生の基準で照らせば「のび太ADHD」で間違いないだろう。サックスの著作をバイブルにしているお仲間も多そうだ。

 


「視力が急激に落ちること」など低次の認識の低下は、できていたことができなくなるので障害としては分かりやすい(コンタクトをつけて何とかなるなら、面倒だが大事ではない)。だが「見えていないことすら分からない」病態失認など、高次の意識の変容には、既存の「障害」観念を適用できないかもしれない。『火星の人類学者』にはトゥレット、ゲシュヴィント、アスペルガー症候群を持つ人たちがそうした脳の器質学的違いゆえの個性をプラスに変えて生きている様が描かれている(色覚を失った画家も高次の意識の変化に近いのかもしれない)。

私はコンサータストラテラなどの薬に頼ることはしたくない。高次の認知の変容は人格にまで影響を与えてしまうからだ。プラスの特性を失ってまで、ADHDのマイナスを消したくはないし、消せるとも思えない。しかし、あくまで私には今のところ必要ないというだけだから、この先考えが変わるかもしれない。

 


他人を発達障害として疑うことの是非はともかく、人間の才能や性格について考える上でADHD系かAS系か考えてみると理解が深まる。