主観と客観

書いている人:ぼん(92年生まれ) 主に発達障害(ADHD、AS)について自分の見解を書いていきます。

極端な敏感さと鈍感さ

多数派と発達障害の違いは、一人の人物の中にある二面性にある。多数派の鈍感な人はだいたいにおいて鈍感だし、敏感な人は一貫して敏感だが、発達障害には極端な敏感さと鈍感さが併存している(多数派に差異がないというわけではなく、程度が著しいという話だ)。行動には極端に無頓着だが、意図に対しては過敏なのがADHD。意図には極端に無頓着だが、行動については過敏なのがASだという言い方もできる。

 


そもそも注意欠陥がADHDの本質ではない。最近は「HSP」(敏感な人HighlySensitivePerson)という言葉もよく目にするが、だいたいはADHDと同じものを指している気もする。
多数派であっても敏感な人はいる。見方によってはASも含まれそうだ。

 

しかし、ADHDにはたしかに「意味に対する過敏さ」があり、それは自分の困難さの一つでもある。「その行動は間違っているから、もっと正しい行動をした方がいいよ」という趣旨のことを言われただけで全人格を否定されたように感じてしまうのだ。これが歪んだ認知であることが頭では理解できるが、感覚的にはひどい理不尽を受けたと思ってしまう。これも客観を認識せずに、相手の言葉の全てを主観的な意図として受け取るからだろう。

 


また、ASの人には感覚過敏がある。これは視覚以外の五感でもフィルターがうまく機能せずにそのまま脳に届いてしまうことが原因だと私は考えている。事実の予測が得意であるために、かえって予測できない事実に不安を感じることも、感覚過敏のストレスに拍車をかけているかもしれない。私の立場は自閉症の原因としての「強烈世界仮説」に似ている。他に原因としてあげられる「ミラーニューロンの機能不全説」は自閉症やASには関係ないだろう。ミラーニューロンは意味や事実の脳への蓄積と関係がありそうだ。

 


ASの人は超人的に仕事が早かったり、完璧だったりする(ジャイアンも不利を回避するために強迫的に早かったりするが)。「ワーキングメモリ」を「客観的事実のシミュレーション」と置き換えてみることもできるだろう。

ASの人が議論好きと呼ばれるのは、こうした事実のシミュレーションからだ。一方、ADHDの好きな会話は意味のシミュレーションで、ASとADHDでは関心のポイントが異なるようだ。

のび太ADHDはいつもぼーっと考え事をしているが、これはデフォルトモードネットワーク(DMN)がオフにならずに、常に起動しているのかもしれない。DMN自体が「主観的な意味のシミュレーション」なのだと言ってもいい。

 


人間の思考、意識の全てが二つのシミュレーションだ。誰にも善悪など分からず、自分の取り込んだものを混ぜて吐き出しているだけだと考えれば、少しは対人関係のストレスも和らぐかもしれない。

発達障害をどう位置づけるか

多数派の中にもADHDと認識を共有しうる「コミュニケーションに長けた多数派」と、ASと認識を共有しうる「ロジカルで優秀な多数派」がいるが、それぞれは決定的に異なる。

 

ADHDは継続して行動を共にする事で安心感を得られないが、また一方で事実を認識できない根源的な不安感にも悩まされるため、組織に所属したい気持ちと拘束されて息苦しい気持ちの二律背反に悩まされる。(客観的な危機感がないゆえの)初対面の相手に対する人なつこい態度とは裏腹に、偏屈で飄々としているのはそういうわけだ。

 

ASの人の感覚は想像するしかないが、ADHDとは逆に行動を共にしたい気持ちと、意味の分からない主観的なやりとりに付き合いたくない気持ちとの二律背反に苦しんでいるのかもしれない。また、これまでの失敗の経験から行動のシミュレーションが働いてトラウマとなりやすいこと、会話の断片から相手の感情を読み取ることができないことも対人関係の不安につながるかもしれない。

 


発達障害が「障害」となるのは多数派と共同して仕事をするときだ。多数派は主観と客観を一致させることでスムーズに動けるが、ADHDとASは感覚が細かく適応できない環境も多い(受動型ASは多数派以上に仕事への最低限の順応が得意だったりもする)。自分の特性をよく考えて自分に出来そうな仕事を探せば意外な天職が見つかるかもしれない。多数派にとってストレスに感じることを、シミュレーションできないゆえに何も感じなかったりするが、これは発達障害の長所ともなりうる。障害は本人ではなく、「本人と環境の間」にあるのだから。

 


もっと突き詰めて、あるのは「適応」か「不適応」かだけで、障害はどこにもないと言ってもいい。社会への「適応」とは他者とシミュレーションを共有すること、他者にとってシミュレーション可能な存在であることなのだから、苦手な仕事はかえって開き直って苦手だからやりたくないと言ってしまうのも一つの手だろう。代替案をうまく示す必要があるが、得意な部分とうまくトレードできるといい。

 


ADHDとASの併発についてはここでは考えない。受動型ASは相手や周囲に細かく合わせた結果、のび太ADHDの注意欠陥のようにも見える。また、ジャイアンADHDは強迫的に不利を回避しようとするので、積極奇異ASのように見えなくもない。しかし、受動型ASは結局客観的にしか考えられないASであり、ジャイアンADHDは主観的にしか考えられないADHDである。結果的な行動はともかく、思考の根幹で区別すれば、併発という見方はできないだろう。(精神科医やんばる先生の「意味不明な人々」http://dryanbaru.xyzを参考にした「型」についてはまた別に書く)。

 


「症候群」には恐ろしげな響きがあるが、単にこういう症状を示す人たちがいるということを表すにすぎない。同性愛ですらかつては精神障害と見なされていたし、自閉症の原因は母親の愛情不足などと言われていたのだ、その「症状」や「障害」という響きすら空疎に感じられる(今は何でもかんでも障害や病気になる。ADHDについてよく知らない人が聞くとうさんくささを感じるのも頷ける)。

主観と客観 二種のシミュレーション理論

私は発達障害の本質は、入ってきた情報をより分ける脳のフィルター機能にあると思っている。認識のリアリティの濃淡が、才能と性格の個人差を生み出しているのだ。
ヒントとなったのは以下の三つの記事だ。

 

ヒトはシミュレーションと行動観察を統合することで他者を理解する - 理研
https://news.mynavi.jp/article/20120621-a164/

脳の直観像記憶と知性のトレードオフ仮説
https://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/k/074.html

サヴァン自閉症 美術的才能 ―国立特別支援教育総合研究所
http://www.nise.go.jp/cms/6,8759,13,257.html

 

サルは人間のような言語を持たない代わりに直観像記憶能力を持つ。自閉症の少女ナディアは言語能力と引き換えに、写実的描写能力を失っていった。オリバー・サックス著『火星の人類学者』でアスペルガーの科学者テンプル・グランディンも言っていたが、ASの一部は視覚的に考える。また、カナー型自閉症ではないアスペルガーの性格の人と会話して気づくのは、比喩が分からず、彼らが言葉を文字通りとしか捉えられないことだ。(ちなみにADHDである私は会話の細部を正確に記憶できない)。言葉の中にある感情を読み取ることができないのも、全体としての意図に結びつける総合能力の弱さにあるようだ。


一方、ADHDは事実を記憶し、行動をシミュレートすることができない。逆に、そうしたことにASの人は超人的な力を発揮する。ADHDとASには決定的に違う部分があり、両者の能力はトレードオフ関係にあるといえる。

 

違いを簡単に書き出すと、
ADHD ――完全な主観的、演繹的、抽象的思考→意図、意味についていつも考えている
AS ――完全な客観的、帰納的、具体的思考→行動、事実についていつも考えている

一番最初の理研の記事にあった「シミュレーション」が私風に言えば「主観的意味のシミュレーション」、「行動観察」が「客観的事実のシミュレーション」となる。

 

定型発達者、いわゆる発達障害でない社会の多数派は「知覚情報の抽象化フィルター」がほどほどに作動していることで、主観と客観の両方を理解することができる。

 

発達障害から見た多数派の不可思議な「普通」は、この二つが組み合わさって生まれる感覚のようだ。ADHDの場合はこれが働きすぎて、事実が脳に蓄積されない。ASの場合は働かなさすぎて、意味が脳に蓄積されないのだろう。蓄積されないので、参照することもできない。だから発達障害に何かを教えることは難しい。分からない部分は教えられても認識できないし、分かる部分に関しては教えられるまでもなく分かっている。手助けが欲しくとも、何を手助けすべきか分かりづらく、本人も困っていることが多い。