主観と客観

書いている人:ぼん(92年生まれ) 主に発達障害(ADHD、AS)について自分の見解を書いていきます。

「先延ばし」「自己突っ込み」「過集中」

 「意味不明な人々」http://dryanbaru.xyzではADHDの特性として、「先延ばし」と「自己突っ込み」、「過集中」を説明している。

 


「先延ばし」は課題があるのは知っているが、行動のシミュレーションができないゆえにやり方が分からない、しかし意味としてはやらなければならないことは強烈に意識している状態だ。「先延ばし」のときは、恐怖と憂鬱で時として希死念慮も出てくる。済んでしまえばこの程度のことか思うものなのだが……。

むしろADHDは行動のシミュレーションの代替措置として、「先延ばし」にしていることに対する憂鬱感を利用するといいのかもしれない。この感覚が来たときは、逃げるのを諦めてその出来事に集中すればいいのだ。そうした経験が積み重なっていけば自信もついてくる。新型うつ病と呼ばれるものの中に、ADHDの「先延ばし」による憂鬱感は多いように思われる。

 


多数派にも自己突っ込みはあるが、ASには(ADHDのような)自己突っ込みはないようだ。「自己突っ込み」は「他の人には何でもないこと(手続きとか)がどうしてこんなに面倒なんだろう。こんなこともできないなんて自分はダメな人間だ」と具体的なことが分からず己を責めることしかできない状態である。おそらく多数派でも主観的であるほどこうした自己突っ込みが見られるはずだが、ADHDの場合は程度が著しい。ADHD系のこれが、意味に対する内省だとすると、AS系の場合は「あの行動は間違っていたのではないか」という行動に対する内省だといえるかもしれない。

この辺りが複雑なのだが、ADHDの自覚があるなら、「あの行動は間違っていたのではないか」と考えるのはやめよう。それが分からないからADHDなのだから、ノイローゼになるだけだ。

 


ADHDの「過集中」は自分や他人の行動を認識せずに、意識が興味の対象に没入することで起こる。私が考える限り、ADHDには通常の集中というものはなく、集中力を切らした状態か、過集中かの二択しかない。あえて区別するなら追い詰められた心理状態の過集中か、自分の好奇心で動いている過集中かの違いがあり、後者の方がパフォーマンスが高いのは明らかだ。

「〜しなければいけない」「周りに迷惑をかけてはいけない」という観念で追い詰められると、ADHDは精神的に持たず、衝動的な行動でその仕事をやめてしまう。しかし、自分がやりたいからやっている、どうしてもやりたくなければ他にできることを探すという心の余裕があれば、過集中状態での疲労も後に響かなくなるだろう。

ADHDが朝起きられないのも、脳が自分の行動をシミュレートしてくれないことに起因するようだ。客観性を認識できないADHDは、多数派やASとは全く違うのだ。

 


私は自分自身の「意味は分かっているはずなのに、正しい行動をとることができない」特性に振り回されて生きてきた。ADHDについて自分なりの理解が深まった今、小学生のときにはすでにあった二次障害から、ようやく回復しつつある。


私は「行動のシミュレーション」ができない。だから、「行動のシミュレーション」は放棄する。それができないことから起きるあらゆる自分の失敗を許す。私の成長は「意味のシミュレーション」能力を伸ばしていくことにしかない。それで十分だということを確認していきたい。